ジグザグ!

花樣年華 THE NOTES

  • かなり改変・意訳してます。
  • 年月順に並べてます。年号は架空のものだそうです。
  • 一人称を僕とか俺とか自分にしてるのは、単純にわたしの趣味です。
  • THE NOTESを含めて勝手に決めた自分内設定を書いたものはこのエントリです。

10年

10年7月23日/ホソク

 3つ数を数えたあたりで、幻聴が聞こえた気がした。先生が僕の名前を呼んだ。教科書に書かれた果物の数を数えていく。5、6、と続けたが、声は震えて手には汗をかいていた。
 僕はその日の母さんの顔をはっきりとは思い出せないが、遊園地を回ったときに母さんがくれたチョコバーのことは覚えている。「10まで数えたら目を開けてね」と言われて、僕が10数えて目を開けると、母さんは居なくなっていた。僕は待ち続けたけど、母さんが帰ってくることはなかった。
 声が出なくなり、耳鳴りがして、視界がぼやけた。先生は僕に数えろと言う。周りの子も僕を見ている。僕は、母さんの顔が思い出せない。母さんはもう戻ってこない。僕は床に倒れ込んだ。

10年12月29日/テヒョン

 家に帰るなり靴を脱いで鞄を放り投げて、奥の部屋を目指した。本当にお父さんが居た。いつぶりだろうか。どこに行っていたのか。そんなことを考える余裕もなく、お父さんの胸に飛び込んだ。
 そのあとのことは、よく覚えていない。お酒のにおいが先だったか、罵声を浴びているのが先だったか、頬を殴られたのが先だったか。何が起きていたのか分からなかった。お酒のにおいと、荒い息遣いと、口臭がした。目は充血していて、ひげは伸びっぱなしだった。大きな手で頬を殴られた。何を見ているんだと言わんばかりに、また殴られた。そして、僕は空中に持ち上げられた。真っ赤に充血した目が怖かったけど、あまりにも怖くて泣くことすら出来なかった。お父さんじゃない。でも、確かにお父さんだ。でも違う。両腕が宙ぶらりんになったかと思ったら、壁に頭を強くぶつけて、床に倒れ込んだ。頭が割れるように痛くて、視界が霞んだかと思えば真っ暗になった。お父さんが呼吸する音だけが、響いていた。

11年

11年4月6日/ジミン

 僕はひとりで草花樹木園の正門を出て歩いていた。天気は曇りで、少しだけ寒かったけど気持ちよかった。遠足に両親が来るはずだったのだけど、忙しくて来れなかった。少し残念だった。けれど花を描く大会で入賞して、友達のお母さんから立派だと褒められた。それから僕は自分のことが少しだけ誇らしく思っていた。
 「ジミン、そこで待ってて、先生すぐ来るから」遠足が終わって樹木園を出るとき、先生が呼びかけたが僕は待たなかった。ひとりでできると思ったからだ。両手でバックパックをぎゅっと握り堂々と歩いた。みんな僕を見ているように思えて、さらに肩を張った。雨が降り始めたのは、しばらく経った頃だった。友だちのお母さんたちも周りのひともみんな見てくれないし足も痛かった。雨の中を走った。家も店も見つけられなくて、たどり着いた樹木園の裏門だった。横のゲートが開いていて、倉庫のようなものが見えた。

16年

16年9月19日/ユンギ

 赤い炎が燃え上がっていた。今朝まで、自分が住んでいた家が炎に包まれていた。気付いた人たちが、こちらに向かって走ってきた。進入路の確保ができず、消防車が入ってこれないらしい。夏が終わり、季節は秋へと変わっていた。空は青くて、空気は乾いていた。
 どうしたらいいのか、何をすべきなのか。 「あ、母さんは。」と思った瞬間、凄まじい音と共に炎に包まれた家が崩れ落ちた。呆然とその様子を眺めた。俺を押しのけて誰かが通り過ぎた。消防車が入ってこれたらしい。他の誰かが俺の肩を掴んで揺さぶって問いただす。「誰か中にいるか」「お母さんはあの家の中にいるのか」 無意識に答えた。「いいえ、誰も居ません。」 近所のおばさんは「お母さんは?お母さんはどこに行ったの?」と言っている。自分が何でこう答えたのか、自分自身でも分からなかった。

19年

19年3月2日/ソクジン

 父の後をついて行った校長室は、じめっとした匂いがした。アメリカから帰ってきて10日程が経っていた。制度の違いによって、本来よりも1つ下の学年として入学することを聞かされたのはつい昨日のことだった。
 「これから、よろしくお願いします。」 父が僕の肩に手を置くと、自然に体に力が入った。「学校という場所は、危険な所です。規律、統制が必要です。」 校長は真っすぐ僕を見つめた。「ソクジン君は、そう思うか?」と聞かれ、突然のことに答えられずにいると、父の手が肩を強く掴み、体が痺れそうだった。「君はきちんとやってくれると信じている」と校長はしつこく視線を合わせてくる。肩を掴まれる力はますます強くなるばかりで、骨が軋むようだった。僕はこの苦痛に耐えるように、ぐっと拳を握った。身体が震え、冷や汗が出た。「必ず私に報告しなさい。ソクジン君は模範的な生徒にならなければいけない。」 校長は感情の読めない顔で僕を見つめた。「はい。」とやっとのことで答えたそのときだけ、苦痛が和らいだ気がした。父と校長が談笑している声が聞こえたが、 僕は顔を上げることができず、父と校長の靴を見つめていた。彼らの靴は光り輝いていたが、その輝いている様子が恐ろしかった。

19年6月12日/ユンギ

 考えなしに学校をサボったはいいけれど、どこにも行く場所が無かった。暑いし、金もないし、することもなかった。海に行かないかと誘ってくれたのはナムジュンだった。 弟たちは浮足立っていたが、俺はそんなに浮かれていなかった。 「金はある?」 俺が言うと、ナムジュンはみんなのポケットから金を出させた。 小銭と、紙幣数枚。こんなんじゃ行けないじゃないか。「歩いていけばいいじゃん」と言ったのはテヒョンだったと思う。みんなくだらない話をして笑ったりふざけながら道を歩いた。
 「あそこに行こう」と提案したのはテヒョンかホソクのどちらかだった。地面を蹴り上げながら歩いていると、誰かにぶつかりそうになった。ジミンがその場に立ち尽くしていた。何かを恐れているように見えた。「大丈夫か?」と声をかけたが聞こえていないようだった。ジミンが見つめている先は「草花樹木園」という看板だった。もう歩きたくないと弱音を吐くジョングクの声が聞こえた。ジミンの名前を呼んでも全然反応がなくて、 「暑いんだからそんなとこじゃなくて海に行こう」と言ってみた。そこには行ってはいけない気がしたからだ。テヒョンが「駅まで歩いていけば何とかなりそう」と言うと、ナムジュンは「じゃあ夕食は抜きな」と返した。ジョングクとテヒョンが嘆いて、ソクジン兄さんが笑っていた。ジミンが再度歩みを進め始めたのは、みんなが駅へ向かう道に入った頃だった。 まるで子供のようだった。

19年8月30日/ジミン

 ホソク兄さんが電話をしている間、僕は兄さんの影を踏みながら遊んでいた。 兄さんは笑って、やるじゃないか、といった顔をしていた。
 学校から家までは、歩いて2時間もかかる距離だった。バスに乗れば30分、バスに乗らなくても、大通りを通れば20分短縮できた。だけど、兄さんはいつも細い路地、なだらかな丘を越えて歩道橋を渡る道が好きだった。
 退院して、転校したのは去年のことだった。転校先は家から遠くて、知っているひとは誰も居なかったが、別に平気だった。今まで何回も転校しているし、いつ入院するかも分からないから、もうそんなことは気にならなくなっていた。そんなとき、兄さんに出逢った。兄さんは何気なく近づいてきて、2時間かけて僕と一緒に歩いたのだ。僕は、なんで兄さんが一緒に歩いてくれるのか、訊ねることが出来なかった。兄さんの影を踏んで逃げた。電話を終えた兄さんが追いかけてきた。ふと怖くなった。 こんな風に過ごす日が、あとどれくらい残っているのだろうか。

20年

20年3月20日/テヒョン

 バタバタと足音を鳴らしながら廊下を走り、立ち止まった。「僕たちの教室」の前に、ナムジュン兄さんが立っていた。 僕たちの教室。誰も存在を知らない使われていないその教室を、僕たちの教室と呼んだのだ。 7人しか知らない、自分たちだけの教室。 息をひそめて、近づこうとした。驚かせようと思ったんだ。
 「校長先生!」 教室から必死になっているような声が聞こえた。ソクジン兄さんの声のようだった。なんで、兄さんが校長と話をしているんだ。「僕たちの教室」で。 ユンギ兄さんと俺の名前が聞こえて、ナムジュン兄さんが驚いた顔をしながらも息を殺していたけど、気配に気付いたソクジン兄さんが、教室のドアを開けた。手には携帯電話。ソクジン兄さんは驚いて慌てていたように見えた。ナムジュン兄さんの表情は見えない。俺は隠れたままその様子を眺めていた。ソクジン兄さんが弁解をしようとしたのか口を開いたが、遮るようにナムジュン兄さんが「大丈夫」と言った。「兄さんがそうしたことには、何かワケがあるのでしょう。」 そう言ってナムジュン兄さんは教室に入っていった。
 信じられない。 ソクジン兄さんが、校長にユンギ兄さんと俺がこの数日の行動… 授業をサボって、そこらへんの不良と喧嘩していたことを、密かに報告していたのだ。そんなことを、ナムジュン兄さんは「大丈夫」と言ったのだ。
 「そんなとこで何してるんだ?」 びっくりして振り返ってみると、ホソク兄さんとジミンだった。ホソク兄さんは俺よりももっと驚いたようなフリをしてみせて、俺の肩に腕を回した。 引っ張られるようにして教室に入って行った。話をしていたソクジン兄さんとナムジュン兄さんが振り返った。ソクジン兄さんは、急用が出来たと行って出ていってしまった。ナムジュン兄さんは、まるで何も無かったかのように俺たちを見て笑いかけた。
 ナムジュン兄さんは、俺よりもずっと理知的で大人だから、きっとこうしたことには考えがあってのことだろう。俺は、さっき見聞きしたことは、誰にも話さないつもりだ。

20年5月15日/ナムジュン

 居場所が無かった自分たちにとってアジトだった、誰にも知られず使われていなかった教室。 倒れている机や椅子を整えた。
 今日は学校に来る最後の日だ。引っ越しが決まったのは、2週間前のことだった。もうここに戻ってくることは二度とないかもしれない。一緒に過ごした仲間たちともう会えないかもしれない。鉛筆を手にして紙に何かを書こうと思ったが、何を書けばいいのか、いい言葉が浮かばなかった。それでも言葉を書き綴っていると鉛筆の芯が折れた。 散らばった芯の欠片を見ていると、貧困にあえぐ家のこと、両親のこと、弟のこと。引っ越しのこと。そういった気が重くなるような問題が散らばっているように見えた。
 結局、紙をポケットに入れて立ち上がった。窓に息を吹きかけて曇らせて、「また会おう」という単純な言葉を書き残した。彼らには、この言葉だけで十分に伝わるだろう。 これは約束ではなく、ただの願いだ。

20年6月25日/ジョングク

 ピアノの鍵盤を手でなぞると、手に埃がついた。指先に力を入れて鍵盤を押してみると、ユンギ兄さんが弾いていたときとは違う音が鳴った。兄さんが学校に来なくなってから、10日が過ぎていた。今日は、兄さんが退学になったという話が耳に入った。ナムジュン兄さんやホソギ兄さんは何も教えてくれなくて、僕もなんだか怖くてこのことについて何も聞けなかった。
 2週間前の、保護者参観の日だった。あの日、校長がアジトにしていた「僕たちの教室」のドアを開けて入ってきたとき、僕と兄さんしか居なかった。教室に居たくなくて「僕たちの教室」に行くと、兄さんがピアノを弾いていたのだ。特に会話もなく、机を並べて寝転び、兄さんが弾くピアノの音に耳を傾けていた。兄さんのピアノの音色を聴いていると、何だか泣きたくなった。
 寝返りをうったら、ものすごい音を立ててドアが開いて、ピアノの音が止んだ。気付けば僕は校長に殴られていて、その場に倒れ込んでいた。暴言を吐かれて耐えていると、突然その声が止まった。ふと見上げると兄さんが自分の前に立ち、先生の肩を突き飛ばしているのが見えた。その日を境に、兄さんは学校に来なくなった。
 本当に退学になってしまうのだろうか。もうここには戻ってきてくれないのだろうか。 何度も叱られて、何度も蹴られることは、慣れていると兄さんは言っていたけど、僕が居なければ、今でも兄さんはピアノを弾いていたかもしれない。僕があの日、行かなければ、こんなことにならず今でも一緒に居ることが出来たのかもしれない。

20年6月25日/ユンギ

 机の引き出しに入っていた封筒を取り出し、封を開けてみるとピアノの鍵盤が1つ落ちてきた。その鍵盤をゴミ箱に捨ててベッドに横たわった。
 葬儀のあと、火事でめちゃくちゃになった家にひとりで行ったことがある。母の部屋に入ると、焼け焦げたピアノがあった。気持ちが落ち着くまで、近くでしゃがみこんでいた。 焼けて元の形をなしていない鍵盤がいくつか転がっていた。どんな音がしたのだろうか。母はどのくらいこの鍵盤に触れたのか。そんなことを考えながら、転がっていた鍵盤の1つをポケットに入れたのだった。
 あれから4年。父親と二人で暮らす家は頭がおかしくなりそうなほど静かだった。夜22時以降は特に静かにしていなければいけなかったのが家の暗黙のルールだった。決められた時間に、決められたことをするというのは案外難しい。でも、それよりもっと耐えられないのは、自分がこの家にまだ住み続いているということだった。父からお小遣いをもらって、食事をして、小言を聞かされた。ここで反抗でもしてみて、父を捨ててひとりで生きるという行動を起こす勇気が俺にはない。
 ベッドから起き上がり、ゴミ箱に捨てた鍵盤をもう一度拾った。 窓を開けると風が部屋に入りこんできて、鍵盤を投げつけた。学校に行かなくなってから10日が過ぎた。退学処分になったらしい。自分から行動するまでもなく、そのうち家から追い出されるかもしれない。もうあの鍵盤がどんな音を鳴らすかも知ることはないし、 音を鳴らすこともない。 もう二度とピアノを弾くことはない。

20年7月12日/ソクジン

 学校から出るとセミの鳴き声が辺りに響いていた。校庭では子どもたちが声をあげながら遊んでいた。夏休みが始まって、みんなはしゃいでいるのだ。僕は頭をうなだれながら間を歩いた。一刻も早く学校から離れたかった。
 「兄さん。」突然のことに驚いて顔を上げると、ホソクとジミンがいた。彼らは僕を見てた。彼らの笑顔はとても明るくて、茶目っ気いっぱいの瞳をしていた。「今日から休みなのに、どこに行くんですか?」ホソクは僕の腕を引っ張って訊ねた。「ああ、そうだね」意味をなさない言葉をぽつりといくつか呟いて顔をそむけた。
 あの日起きたことは、明らかに意図してなくて、本当に事故だった。あのタイミングでユンギとジョングクが僕たちの教室にいると想定していなかったのだ。校長は、僕が彼らのことをかばっていると疑った。何か言うべきだった。ユンギは退学させられてしまった。僕がしていたことを、誰も知らない。
 「良い休暇を過ごしてください!電話しますね!」僕の様子を見てどう思ったかは知らないが、ホソクがそっと手を離して明るく挨拶した。何も言えなかった。学校の門を通り過ぎるたとき、この学校に来た最初の日のことを思い出した。みんな一緒に遅刻して、みんなで一緒に罰を受けたんだ。みんな笑いあいながら。僕がそれらの思い出を台無しにしてしまったんだ。

20年9月15日/ホソク

 ジミンのお母さんが救急室に入ってきた。ベッドの枕元にある名前と、点滴を確認してから、ジミンの肩についた葉っぱを取り除いた。僕は、ジミンが救急室に運ばれてきたこと、バス停で発作を起こしてしまった経緯についてお母さんに説明しなければいけないと思い、うろたえつつ近寄った。そのときに初めてジミンのお母さんは僕の存在に気付いたようで、 そして見定めるように僕を見つめた。 ジミンのお母さんは、「ありがとう」と言って僕に背を向けた。 医者と看護師たちがベッドを移動し始めて付いていこうとしたら、 ジミンのお母さんがまた、僕に「ありがとう」と言って、肩を押してきた。 押したというより、剥がそうとした、の方が正しいだろうか。僕とジミンのお母さんの間に、冷たくて堅い、超えることが出来ない境界が出来たように思えた。
 僕は、10年以上の間、孤児院で生活してきた。 だから、そういったことは身体、視線、その場の空気感で理解できた。後ずさりすると、のけぞって床に倒れてしまった。 そんな僕を、ジミンのお母さんは見下ろしていた。華奢で美しい人だが、彼女が作り出す影は大きく、冷たかった。その影は僕に重なった。その日から、ジミンは学校に戻ることはなかった。

20年9月28日/ジミン

 入院してから何日経ったのか、数えるのをやめてしまった。 数える、というのは、退院できる望みがある場合にすることだから。 窓の外から見える景色から、そんなに時間は経っていないことがうかがえた。1ヵ月くらいだろうか。 薬のせいなのか、何もかもが面倒でぼんやりしていた。
 今日は特別な日だった。日記を書いているなら、絶対に書かなきゃいけないような日。でも、僕は日記には書かない。 あとから問題になったら嫌だからだ。 今日、僕は初めて嘘をついたのだ。 医者の目を見つめながら、憂鬱なふりをして。 「何も思い出せないんです。」

20年9月30日/ジョングク

 まだあそこに行っているんじゃないだろうな、という問いに、僕は返事をしなかった。 返事をしないと叩かれたが、ひたすら黙っていた。あの場所は、「僕たちの教室」は、兄さんたちと一緒に過ごした場所だった。兄さんたちはバイトや他の用事で来ないこともあったけど、僕は毎日あの場所に居た。誰も来ない日もあったが、それでも別の日には来るからそれで良かったのだ。
 悪いことばかり覚えたな、とまた叩かれた。ユンギ兄さんが殴られたときのことを思い出した。それでも、もうあの場所には行かない、という嘘は吐きたくなかった。「僕たちの教室」に向かうと、ホソク兄さんが居た。教室に残っている荷物をまとめているようだった。兄さんは自分の肩に腕を回し、「もう行こう」と言った。もうあの日々は二度と戻ってこないのだと悟った。

21年

21年2月25日/ホソク

 鏡に映る自分の姿から目を離さずに踊った。鏡の中の自分は、地に足がついていなくなって、そんなことどうでもよくなるくらいのエネルギーに満ちていて、この世界のあらゆるしがらみから解放されているのだ。
 初めてダンスを踊ったのは12歳のときだった。修練会での、特技を披露する時間だったと思う。学校の友だちに引っ張られて舞台に上がったときのことを今でも鮮明に覚えている。拍手と歓声と、初めて自分らしく居られたような気持ちになったこと。その当時は、音楽に合わせて身体を動かすだけで楽しかった。湧き上がってきた喜びは、拍手をもらったからではない。自分の中から湧き出たものだと分かったのは、それよりもしばらく後のことだった。
 鏡の世界に居ないときの僕は、あらゆることに心を殺していた。どれだけつらくても笑っていた。飲む必要のない薬を飲んでは、色んな場所で倒れていた。ダンスを踊っているときだけは、自分から目を逸らしたくない。自分らしく居られる唯一の時間。すべてを捨てて飛び立ち、幸せになれると信じることができると思える瞬間。その瞬間を見届けていたい。

21年12月17日/ナムジュン

 始発のバスを待つ人たちが、冬の冷たい風にさらされた手をこすっている。誰とも目を合わせないように地面に視線を落としていた。一日にバスが少ししか来ない田舎町だ。 遠くからバスが来るのが見えた。バスに乗むと、決して後ろを振り向かないようにした。未練や恐れから抜け出すには、後ろを振り向いてはいけないのだ。父が患っている病気や、疲弊している母親、放蕩者の弟。それでもすこしでも平穏な生活を保つために自身をすり減らしている自分。そして、何より貧困という問題。
 数時間か経てば、このバスは見慣れたバス停にたどり着く。1年前、誰にも挨拶せずに離れてしまった場所に、今度は何も言わず向かっている。連絡を取らなくなったみんなは、何をしているだろうか。自分を迎え入れて、また笑いあえるだろうか。曇った窓に「生き残らなければいけない」と指をすべらせた。

22年

22年4月7日/ユンギ

 真夜中の工事現場には、焚いたドラム缶の炎がパチパチと音を立てていた。おぼつかないピアノの音色が聞こえた。アルコールのせいで足がふらついていた。目を瞑り平然を装って歩いていると、クラクションを鳴らされた。目を開けるとすれすれのところで車が走り去っていった。 ピアノの音が聞こえなくなった。ドラム缶の火の粉を眺めていると、ピアノの鍵盤を拳で叩くような音が聞こえ、振り返った。その瞬間、体が勝手に楽器店に向けて走り出していた。何度も繰り返してきたような気がする。大切なことを忘れている気がする。ガラス窓の割れた楽器店にたどりつくと、ピアノの横に誰かが座っていた。忘れるわけがない。
 人に関わりたくなかった。 誰かの人生に影響を与えたり、誰かを守る自信も無かった。 傷つけたくなくて、人に寄り添うことが出来なかった。 ゆっくりと歩き出す。 間違えた音を指摘すると、ジョングクが自分を見上げた。 高校を辞めて以来の再会だった。

22年4月11日/ナムジュン

 クローゼットの中から買ったばかりのTシャツを探していたところ、テヒョンが自分の背後から手を伸ばしてTシャツを取っていった。 テヒョンはぎこちなく笑いながら、 自分が着ていたTシャツを脱いだ。そのときだ。テヒョンの背中に痣があるのを目にしたのは。ホソクもその痣に気付いたようで、驚いた表情を浮かべて自分に視線をよこした。 テヒョンは自分のTシャツを着て鏡の前で姿を確認した。「こいつがグラフィティしたのを見つかって暴れて警察署に連れて行かれたのを迎えに行ったから遅れたんだ。」 テヒョンをこづく真似をしたら、テヒョンも大げさに反省したフリをした。 近くに座っていたユンギ兄さんがテヒョンに近づき、肩を叩いた。

22年4月11日/ジョングク

 夜の街をふらついていた。わざと不良にぶつかると、狙い通り因縁をつけられてそのまま殴られた。店のシャッターにもたれて夜空を見上げた。義父の顔が浮かぶ。自分を居ないかのように生活する義父と義兄弟。どうしたらいいのか分からずにうろたえるだけの母親。立ち上がると横っ腹が刃物で刺されたように痛かった。工事現場の屋上に上がり、夜の街を眺めた。両手を広げて歩くと、バランスを崩しかけて、「このままだと死んでしまう」と思った。自分が死んでこの世から居なくなったところで、誰も悲しまないというのに。

22年4月11日/ソクジン

 一人で海に訪れた。ファインダーの中で、海はあの日のように広くて青かった。海面に反射する光も、森を通り抜ける風も、何も変わらなかった。変わったことがあるとしたら、僕が一人でここに居るということだ。シャッターを切ると、2年10ヵ月前のあの日が一瞬だけよみがえったような気がした。あの日の僕たちは、並んでこの海を眺めていた。みんな一緒だった。ハンドルを回して、アクセルを踏んだ。トンネルを抜け、休憩所を通り過ぎる。みんなで一緒に通った学校の近くに車を止めて窓を開けた。春の夜だった。暖かい風が吹き、塀にそって植えられた桜から花びらが舞い散った。学校をあとにして、いくつかの交差点を過ぎて、何回か道を曲がった。ナムジュンが働くガソリンスタンドの光が見え始めた。

22年5月2日/ジョングク

 ナムジュン兄さんのコンテナの中に入った。辺りにあった洋服をかき集めて、体を丸めて横になった。体が震えていた。泣きたいのかもしれない。
 ドアを開けると、ユンギ兄さんはベッドの上に立っていて、周りは炎に包まれていた。 感情を表に出すことや、それを言葉にすることが苦手な自分の口からやっと出た言葉は「みんなでまた海に行こうって約束したじゃないですか」だった。
 ナムジュン兄さんに肩を揺すられ起こされた。怖い夢でも見たのか?と聞かれた。それから自分の額に触れ、熱があるようだと言った。頭痛もするし寒気もする。兄さんが買ってきてくれた薬を飲んだ。今は寝て、話ならあとでしようと言われて頷いた。「僕も兄さんのような大人になれるかな?」と言うと、兄さんが振り返った。

22年5月19日/ジミン

 結局、僕は草花樹木園に行かなかればいけなかった。そこで何が起きたか覚えていないという嘘を自分に言い聞かせることはやめにしないといけない。病院に逃げることも、発作を起こすこともやめなくては。やめるには、あの場所に行かなくてはいけないのだ。そのためにバス停まで毎日行ったのだが、バスに乗ることが出来なかった。
 もうバスを3本見送ったあたりで、ユンギ兄さんがやってきて僕のとなりに座った。僕はどうしたんですか、と訊ねると「暇をしている。特に何もしてない」と言った。僕はなんでここにこうして座っているのか考えた。勇気がなかったからだ。乗り越えられると思っていたけれど、実際は怖かった。耐えられないかもしれないし、別の発作を起こしてしまうかもしれない。
 ユンギ兄さんは穏やかそうに見えた。何も心配ないとでも言うように、いい天気だなあと言った。そう言われて、やっと僕は本当にいい天気だったことに気付いた。周りを見渡す余裕がなかったんだ。空はとても青かった。暖かな風が頬を撫でる。草花樹木園へのバスが来た。バス停まで来ると扉が開き、運転手が僕を見た。とっさに僕は言った。「兄さん、一緒に行きませんか?」

22年5月20日/テヒョン

 両手には血がついていて、足の力が抜けてしゃがみこもうとしたら、後ろから支えられた。姉さんが泣いていて、ホソク兄さんは何も言わず立っていた。汚れた家具やら布団やらが、いつものように散らばっていた。
 父親が立っていた場所にはもう誰も居なくて、どうやって父親が出て行ったのか分からない。激しい怒りと悲しみは、まだ自分の中に残っている。父を刺そうとしたときに自分を抑えさせたものは一体何だったのだろう。気が違ってしまいそうな程の心をどう鎮めたのかも覚えていない。殺すんじゃなくて、俺が死にたいのに。今だって。何もかも壊して泣き叫びたいのに、何ひとつ出来なかった。
 「兄さん、俺は大丈夫なので、もう行ってください。」喉から掠れた声が出た。なかなか帰ろうとしなかった兄さんをどうにか見送った。手に巻かれた包帯には血が滲んでいた。父を刺す代わりに酒瓶を床に殴りつけて、その破片で手を切ったのだ。
 目を瞑るとぐるぐるといろんなことが頭をよぎる。これからどうしたらいいのか、どうすべきなのか。 気が付けば携帯でナムジュン兄さんの電話番号を表示していた。こんなときに。いや、こんなときだからこそ、兄さんに縋りたかった。兄さん。俺は自分を産んでくれた父親を、でも、毎日殴ってきた父親を殺しそうになりました。いいえ、心の中では何度も、数えきれないほど殺しました。もう、死にたいです。どうすればいいんでしょうか。兄さん、逢いたいです。

22年5月20日/ホソク

 テヒョンを警察に迎えに行った。警察署からテヒョンの家まではさほど離れていない。 もし、もう少しだけ警察署とテヒョンの家が離れていたのなら、 テヒョンは何回も警察の世話になることも無かっただろうか。こんな近くに居を構えるなんて、皮肉なものだ。「腹減ってないか?」とテヒョンの肩に腕を回して訊ねたが、テヒョンは首を横に振った。 テヒョンは今どんな気持ちだろうか。どれほどの苦しみを抱えているのだろうか。テヒョンの顔を見ることが出来ずに空を見上げると、飛行機が一機過ぎていった。
 テヒョンの背中の傷を初めて見たのは、ナムジュンのコンテナでテヒョンが着替えたときだった。健気に笑うテヒョンの顔を見たら、何も言えなかった。
 僕には両親が居ない。父親の記憶は何も残ってないし、母さんとの記憶も7歳までだ。心の傷というものは克服しなければいけない、そうでないと生きていけない。受け入れることで生きていけるのだと分かってはいる。でも、生きていると新しい心の傷が増えるばかりだった。苦労していない人間など居ないと知っているけれど、なんでこんなに傷つかなくてはいけないのだろうか。
 「大丈夫です、一人で帰れます」 分かれ道でテヒョンが言った。僕は無視して先頭を歩き続けた。「本当に大丈夫ですから、見てください、ほら、何ともないでしょう。」 テヒョンは笑ってみせるが、大丈夫なわけがない。テヒョンがフードを被ってついてきた。「本当に腹減ってないのか?」 テヒョンの家へとつながっている廊下まで来たときにまた聞くと、明るい笑みを浮かべて首を横に振った。廊下を歩く後ろ姿を見守ってから後ろに振り返る。 ぼくも一人だ。 電話が鳴った。

22年5月22日/テヒョン

 ナムジュン兄さんが電話を受けながら来た道を戻って来るのを見たのは森を過ぎたあたりだった。 最近、そんなことが多くなっていた。兄さんは、他の人たちに聞かれないように遠く離れて電話をした。 俺はわざと歩みを遅くして、海の方へ身を隠した。 兄さんは僕に気づかずに通り過ぎて行った。「僕よりたった一歳しか違わないんですよ。僕は兄ですが、いつまでも子供ではないのですから、自分の問題は自分で解決しないと。怒ってないです。すみません。」
 冷たい何かが背中を伝っていった。この世界のすべてが音を立てて崩れていくようだった。 怖くて、苛立って、我慢することが出来なかった。何でも良いから、とにかく悪いことをしてやりたい。叩いて、壊して、めちゃくちゃにしてやりたくなった。俺にも確かに、父親との血の繋がりをまざまざと感じた。自分の内側にある暴力性が、溢れてきてしまったかのようだった。

22年5月22日/ナムジュン

 「僕よりたった一歳しか違わないんですよ。僕は兄ですが、いつまでも子供ではないのですから、自分の問題は自分で解決しないと。怒ってないです。すみません。」電話を切った地面に目線を落とす。胸が詰まる思いだった。両親のことを愛していないわけでは決してないし、弟のことが心配じゃないわけでもない。目を背けたい問題からそのまま逃げ出したいが、逃げ出すことが出来ないのが自分の性分だと思っている。なのにこの状況から抜け出したいと思う気持ちは何なのだろうか。身動きをせず立ちすくむ姿が見えた。ジョングクだった。
 いつの日か、ジョングクが自分に、自分のような大人になれるだろうかと問いかけてきたことがあった。何も答えることが出来なかった。自分はいい大人ではないこと。いや、大人にもなっていないこと。年齢を重ねたところで、背が伸びたところで大人になるわけではないのだ。
 けれども、普通の家庭であれば当たり前のように得ることが出来ていたであろう親からの愛情を受けていない、まだ幼い友人には伝えることが出来なかった。ジョングクには、自分よりもマシな未来が待っているといい。けれど、そのために自分が力になれるとは思えなかった。 ジョングクの肩に腕を回すと、ジョングクが自分を見つめた。

22年5月22日/ジョングク

 身体が浮いたかと思えば、気付けば固い地面に四肢が投げ出されていた。身体があまりにも重く、瞼を開けることも、唾を飲み込むことも、息をする気力も湧かず、次第に遠のく意識と共に、視界がぼやけていった。 突然発作が起きて瞼を上げると、霞がかった視界の中から月が見えた。 世界が逆さまに見えた。やはり息も咳も出来ず、動くことが出来なかった。そのうち寒気に襲われた。目を瞑っていないのに視界がどんどん暗くなっていく中で、誰かの声が聞こえた。「生きることは死ぬよりつらいのに、それでも生きたいのか。」

22年5月31日/ホソク

 急に息が苦しくなった。しばらくダンスを踊っていたからじゃない。 母さんに似てると思ったのだ。 10年以上の付き合いである友だちの顔を、真っすぐ見ることが出来なかった。 共にダンスを習い、失敗し、挫折し、頑張ってきた中だ。 それまで一度も感じたことのない感覚に、気分が落ち着かなくなり、席から立った。 角を曲がり壁にもたれて呼吸を整えていると、「どこに行くの、ホソク」と声が聞こえた。 今ではあまり思い出すことが出来ない、僕が7歳のときに聞いた声。

22年6月3日/ジミン

 音楽を止めると周りは一気に静寂に包まれて、僕の呼吸音と心臓の鼓動の音以外は何も聞こえなかった。 携帯を取り出して、習ったダンスの振り付け動画を再生した。ホソク兄さんの動きは柔軟で正確だった。それはたくさんの時間と鍛錬の賜物であって、今の僕が同じ動きをするには到底無理なことだと分かっていた。 そう理解はしているものの、ため息ばかり漏らしていた。 ターンはそこそこ真似できてはいるものの、ステップが上手くいかずもつれてしまって、いつも同じところでミスをする。 明日は合わせることになっているので、それまでには何とかしたかったのだ。 「様になってるよ」と冗談っぽい褒め言葉の代わりに、対等なパートナーとして認めてもらいたかった。

22年6月8日/ユンギ

 Tシャツを脱いだ。鏡に映る自分はまったく自分らしくなかった。Dreamとプリントされた赤いTシャツは、自分の好みとはかけ離れている。イライラしてタバコを吸おうと思いたち、ライターを探した。ポケットに入っていなかったので鞄を漁った。そこで思い出した。自分の手から遠慮なしに奪っていったのだ。 代わりに棒付きの飴とこのTシャツをくれたのだった。頭をガシガシと掻きながら起き上がると携帯が鳴った。画面に表示された名前を見て鼓動が高鳴った。タバコの箱をぐしゃっと曲げたそのとき、鏡にうつった自分は例のTシャツを着て笑っていた。

22年6月13日/ソクジン

 あの海から帰ってきたあと、あらかじめ取り決めていたかのように、僕たちはみんな散り散りになった。 路上のグラフィティ、明かりの灯ったガソリンスタンド、廃墟から聞こえてくるピアノの音で、 お互いの存在を感じ取るだけだった。
 度々、あの夜のことを思い出す。まるで炎のように激昂したテヒョンの瞳、テヒョンを制止するナムジュンの手、信じられないような目で僕を見つめる数々の視線。耐えきれずにテヒョンに拳をあげてしまった僕の姿。飛び出したテヒョンが見つからず、戻ってきた海の宿には誰も残っていなかった。割れて欠けてしまったコップや、乾いた血の痕、散乱したお菓子の屑が、数時間前に何があったかを物語っていた。写真が一枚落ちていた。海を背景に、みんなが写っている。僕たちは一緒に居たし、笑いあっていた。
 今日も僕はガソリンスタンドの前を通り過ぎた。いつかまた逢える日が来る。またあの頃のように笑いあえる日が来る。僕は、自分自身と向き合う日が訪れるのだろうか。今はまだその勇気がない。
 次の瞬間、警告のように携帯電話が鳴った。ルームミラーに吊り下げて飾った写真が揺れた。待ち受け画面には、ホソクの名前が表示されていた。「ジョングクがその夜、交通事故に遭ったそうです。」

22年6月15日/ユンギ

 頭の中で流れる曲が何の曲なのか以外、何も分からなかった。どれだけ酒を飲んだのか、どこに居たのか、何をしてたのか。でも、別に重要なことではなかった。外に出ると躓いた。すでに夜が更けていた。ふらふらしながら歩いた。歩行者にぶつかったのか、売店にぶつかった気がしたが、気に留めなかった。何も忘れたかった。ジミンの声がまだ聞こえるようだった。「兄さん、ジョングクが…」
 次にあるのは、病院の階段を狂ったようにのぼっていた記憶だ。病院の廊下は、いやに長くて暗かった。病院の患者服を着ている人々が通り過ぎた。俺の心臓はバクバクしていた。みんな顔色がとても青白かった。みんな無表情だった。死んでいるみたいに。俺の呼吸音が頭の中でそれは不快に響いていた。
 病室のドアが少し開いていて、ジョングクはそこに横たわっていた。反射的に目を逸してしまった。彼の直視できない。その瞬間、聞こえた。突然、ピアノの音が、炎の音が、建物が崩れていく音が。「お前のせいだ」という母親の声だった。いや、誰の声でもない。その声のせいでしばらく苦しかった。信じたくなかった。でも、ジョングクはそこに横たわっている。死人のような顔をした患者が通り過ぎる廊下に、横たわっていて。確認できなかった。立ち上がるとふらついて、病院から出ると涙が出た。おかしなことだ。最後に泣いたのはいつだったか。覚えていない。
 横断歩道を渡ろうとしたとき、誰かに腕を掴まれた。誰だ?いや、別に気にならない。誰でも同じだから。近寄らないでくれ。あっちに行ってくれ。去ってくれ。誰も傷つけたくないし、傷つきたくない。誰も近寄らないでくれ。

22年6月22日/テヒョン

 わざと歩みを遅くして、俺の後をつけてくる気配に耳を集中させた。 コンビニでぶつかったのは今日で3回目。それまでと違うことと言ったら、今回は俺の姿を見るなり飛び出していったこと。コンビニの近くにある空き地に居たようだが、俺を見てまた姿を隠したのだ。隠れているつもりだろうが、影が空き地の前まで伸びていて、思わず笑った。 気付いていないふりをして歩き出すと、また俺のあとをついてくる。この街で街灯が壊れていない唯一の細い路地裏に入った。歩みを早めて歩き出す。 俺のではない影が現れて、歩みを止めると気配も止まったようだった。背の高さが違う影が、2つ並んでいた。俺は言った。「ここに来るまで待つ。」 影の主は驚いた様子で、静かに息を殺していた。 「全部見えてるぞ。」 俺は影を指さすと、わざと足音を立てながら、その気配は俺に近づいてきて、俺はたまらず笑った。

22年6月30日/ナムジュン

 俺の手が自ら意思をもったかのように「開く」ボタンを押したのを、少しの違和感をもって眺めていた。 こんな瞬間があった。初めてのことなのに、何度も繰り返しているような気がする瞬間がある。 エレベーターに乗り込んでくる人たちの中に、黄色いゴムで髪を結んでいるひとが居ないかを探した。その人が居ることを知っていてボタンを押したわけではないが、必ず居るだろうと思っていた。エレベーターの壁に背中があたり顔を上げると黄色い輪ゴムが視界に入った。
 人という生き物は、背中が語ると思っている。背中を見ているだけで、何となくその人のことを分かった気がするものだ。背中でそのひとの全てが分かったときが、その人を完全に理解したということになるのではないだろうか。自分のことも理解してくれる人が居るのではないか。 鏡の中で視線がぶつかり、目を逸した。このようなことはしょっちゅうだった。 再び鏡を見ると、自分の顔だけが写っていて、俺の後ろ姿は見えなかった。

22年7月4日/ジミン

 気付いたときには僕はひたすら腕を皮膚が擦り剥けるほど洗っていた。僕の手は震えていて、息が上がっていて、目は血走っていた。何が起きたのか分からなかった。
 少し前のことを思い出した。僕はダンス教室で彼女と踊っていてたけれど彼女とぶつかってしまって、床に倒れ、そして腕から血が流れた。その瞬間、草花樹木園で起きたことを思い出した。僕は克服していたと思っていたのに、そうではなかったのだ。逃げなければならなかった。洗い流さなければならなかった。目を逸らさなければならなかった。鏡の中の僕は、雨の中、転がるように走っていた8歳の子供だった。
 彼女も一緒に倒れたはずなのに、練習室には誰も居なかった。ドアの隙間から雨が激しく降っているのが見えて、ホソク兄さんが走っているのが見えた。僕は傘を手に取ってあとを追おうとしたけれど、やめた。僕ができることなんて何もない。僕にできることといったら、誰かを倒して傷つけて、見捨てて、自分の痛みに震えるだけ。
一歩踏み出すたびにスニーカーに雨水が撥ねた。構わなかった。いや、大丈夫じゃなかった。傷ついていない。怪我はたいしたことなかった。本当に大丈夫だったんだ。

22年7月4日/ホソク

 彼女が応急処置を受けている間、僕は廊下に立っていた。夜中にも関わらず、病院の廊下は人々でごった返していた。 汗なのか雨なのか分からないが、濡れた髪から水滴が落ちていった。 僕は彼女の鞄を落としてしまって、荷物が散乱してしまった。その中に、飛行機のチケットを見つけてしまった。 医者から電話があた。医者が言うには、軽い脳しんとうなので心配することはない、ということだった。しばらくしてから彼女が出てきた。「大丈夫?」 僕は彼女の鞄を肩にかけて、努めていつもと変わらない態度を取った。 病院を出ると変わらず強い雨が降っていた。 彼女が口を開いて何かを言おうとしたのに気付いて、咄嗟に「コンビニで傘を買ってくる」と言った。
 以前、彼女が海外のダンスチームのオーディションを受けたことを知っている。 飛行機のチケットを持っているということは、オーディションに受かったということだろう。 彼女の話を聞く勇気がなかったし、彼女を祝福できる自信が無かった。

22年7月13日/ナムジュン

 図書館からガソリンスタンドまでの道を、バスの窓に頭をかたむけながら眺めていた。いつかこの景色から抜け出せるだろうか。 前の席に、黄色いゴムで髪をしばった女性が座っていた。 一ヶ月以上の間、同じ図書館で勉強をして同じ停留所でバスに乗った。まだ一言も言葉を交わしたことはないが、同じ景色を眺めて、同じ時間を生きている。 その女性は、自分が降りるバス停の三つ前で降りる。彼女が降りるバス停が近づき、乗客が停車ボタンを押す。乗客が立ち上がり降りる準備を始めるが、彼女の姿が無かった。寝ているようだった。起こすべきなのだろうか。 悩んでいる間にもドアは閉まり、バスはまた走り出してしまった。 彼女はずっと起きることはなかった。自分が降りるバス停に近づいたとき、また彼女を起こそうか悩んだ。自分が降りてしまったら、もう他に彼女がバスに乗り続けてしまうことを心配する人間が居なくなってしまうのだ。
 バス停から離れ、ガソリンスタンドに向かって歩きだした。後ろは振り向かなかった。彼女の鞄の上にヘアゴムを置いただけだった。ただそれだけだった。始まってもないし終わってもいない。

22年7月16日/ジョングク

 歌を歌った。もう歌詞を見なくても歌えるようになった。 片耳にイヤホンをはめて、自分の声を聴きながら歌の練習をした。 いい歌詞だと思うが、その中にあるワードがこそばゆくて頭を掻いた。 部屋には7月の日差しが差し込んでいる。 世界が輝きを放っていて、心の中で何かが膨らんでドキドキしていた。

22年7月17日/テヒョン

 脇腹が痛いし、汗が噴き出していた。線路の隅っこやコンビニの裏、高架の下。 どこにもあの子は居なかった。バス停まで走ったが、やはり居ない。 逢おうと約束したわけではないが、あの子はいつだってふらっと現れては 僕の後をついてきたのに。 一緒に歩いたことのある場所を探しても、あの子は居なかった。 見慣れた壁の前で足を止めた。あの子と一緒に描いたグラフィティ。 その上に大きく×が描かれていた。あの子が描いたに違いない。 いろんな思い出と共に、「つらいことがあったら僕に相談してほしい」と言ったことを思い出す。 ×は全ての思い出を否定するかのようだった。 また、ひとりぼっちになった。彼女も。

22年7月26日/ジョングク

 こっそりと病院の花壇の花を摘んだ。勝手に頬をゆるんで我慢できない。 病室のドアをノックしても返事がなかった。もう一度叩こうとしたそのとき、ドアが少し開いた。 中を覗いてみると、誰も居なかった。もやもやと複雑な感情に苛まれながら車椅子で移動していたときに、彼女に出会った。髪の毛をひとつに結んだ女の子だった。病院のベンチに一緒に座って、あの子と一緒に音楽を聴いたり絵を描いたり、屋上でいちご牛乳を二人で分けて飲んだ記憶がよみがえる。 手にはまだ摘んだ花があるけれど、渡すべき相手はもう居ない。

22年8月3日/ソクジン

 「僕たちの教室」のドアを開け中に入ると、真夏の夜、カビと埃が混ざったようなにおいが立ち込めていた。今までに起きた出来事の断片が脳裏によぎる。光に照らされた校長の靴、ドアの外に立っていたときのナムジュンの表情、ホソクを無視してひとりで帰った最後の日。 頭が痛くなって寒気がした。言葉に言い表せない感情がまるで痛みを伴ったように押し寄せた。身体と心が、警告を促している。ここから出ていかないといけない。テヒョンが僕の顔色に気付いて、腕を掴みこう言った。「兄さん、あとちょっとだけ頑張ろう。今までのことを思い出してみて。」 テヒョンの腕を振り払って背を向けた。うだるような暑さの中を何時間も歩いていたので、ほとほと疲れ果てていた。他の友人たちは、どう話しかけていいのか分からないといった表情で僕を見ていた。
 テヒョンの言う「思い出す」という行動は、僕には意味のないことだ。僕がしたこと。僕の身に起きたこと。みんなで何をしたかということ。記憶というものは、理解することや納得することではない。心の中や頭の中、魂の奥深くに刻まれていなければならないものだ。 僕にとっての「記憶」とは思い返せば悪いことばかりで、苦しくて、逃げ出したくなるようなものばかりだった。この場から立ち去ろうとする僕と、それを阻止しようとするテヒョンの間で喧嘩になった。お互い、疲労困憊だった。殴ることも避けようとすることもすべての動きが重かった。テヒョンと揉み合っているうちに、お互いの足がもつれて、それからあっという間にバランスを崩した。何が起きたのか分からなかった。埃のせいで目を閉じることも息をすることすらも難しかった。それから咳込んでいると、「大丈夫ですか」という声が聞こえた。僕は床に倒れ込んでいることに気付いたのだった。
 体を起こすと、壁があったと思った所には壁は崩れてなくなっていた。その向こうには広々とした空間が広がっていた。しばらくの間、誰も、動かなかった。壁の向こう側にこんな場所があると誰も想像していなかった。何もない空間には、ぽつりとキャビネットがひとつ置いてあった。ナムジュンがそのキャビネットを開くと、そこにはノートが一冊置いてあった。最初のページをめくると、思わず息を飲んだ。想像もしていなかった人物の名前が、そこに書かれていたからだ。父の名前だった。
 ナムジュンが、更にページをめくろうとしたが、僕は咄嗟にノートを奪い取った。 ナムジュンは驚いていたが、気遣ってはいられなかった。 父の筆跡で書かれたメモには、高校生のときに、父が友人と過ごした日々が綴られていた。 毎日書かれていたのではなく、月が飛んでいたり、血痕のような汚れで丸々読めないページがあった。 それでも、僕は、父が僕と同じような経験をしたことを知るには十分だった。 僕のように過ちを犯して、その過ちを取り戻そうと奔走したこと。 父のノートに書かれていたことは、どれも失敗の連続であったことの記録だ。 結局、父は諦めて、放棄したのだ。忘れようと、目を逸らし、逃げて、友人を見捨てた。 最後のページには、真っ黒なインクが沁みていた。
 どれくらいの時間が経っただろう。 少し涼しくなった風で、もう、夜明け頃のようだった。ナムジュンをはじめ、みんなは座ったまま眠りについていた。名前の下には、こんな文章が書かれていた。「すべてはここから始まった。」
 ノートを閉じようとしたとき、インクの汚れで真っ黒になった行間に文字が浮かんできた。そこには、父が忘れていたもの、父が覚えていないものまで残っていた。父が経験してきたこと、打ちのめされそうになるほどの恐怖や絶望、そしてほんの僅かな希望と、それらがぐちゃぐちゃに混ざったような、ありのままの心の叫びが、ノートに刻まれていたのだ。
 僕はひとりひとりを見つめ、こう思った。 もしかすると、僕たちはここに戻って来なくていけなかったのかもしれない。 ここから、僕たちのすべてが始まった。一緒に過ごし、笑いあい、喜びを知ったのだ。僕が犯した最初の過ちと失敗。それらがもたらした苦悩の意味を見つけ出すことで、ようやく僕は自分の心と向き合う一歩を踏み出せるのだ。

22年8月15日/ソクジン

 渋滞し始めていた道の交差点を抜けて速度を上げ始めたところで、車を急停車した。 後続車がイライラした様子でクラクションを鳴らし、通り過ぎていった。悪態をつかれた気もしたが、都会の騒音でよくは聞こえなかった。右側にある通りに、こじんまりとした花屋が見えた。その店を見て車を急停車したわけではなく、急停車してから店を見つけたのだ。 改装中の花屋の片隅で書類整理をしていた店主が近寄ってきたが、特に期待はしていなかった。すでに何店舗も花屋を回ったが、花の専門家であるフローリストでさえ、その花の存在をよく知らなかった。 みんな、似たような花を見せてくれるだけだった。 けれど、僕は似たような花を探しているのではなかった。本物の花でないといけないのだ。 店主は花の名前を聞いて、僕をしばらく見つめた。 まだこの店はオープンしていないが、配達することはできるということと 、「何故、絶対その花が必要なのですか?」と僕に訊ねた。
 ハンドルを握り、再び走り出す。その花が絶対に必要な理由。幸せにしてあげたい。 笑わせてあげたい。 喜ぶ姿を見たい。 いい人になりたいからだ。